なぜ日本は経済大国になれたのか(前編)――アヘン戦争の衝撃

簿記の歴史物語 第37回

はじめに

1840年8月、イギリスの艦隊が中国を攻撃し、アヘン戦争が始まりました。

当時のイギリスは中国から茶や陶器を輸入している一方、中国側に輸出できる商品はインド産のアヘンくらいしかありませんでした。(※当時はイギリスがインドの植民地支配を拡大していた時期にあたります。1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝に即位し、イギリスによるインド支配が完成します)

しかし国内の風紀悪化を懸念した清王朝は、アヘンの取り締まりを強化します。これが戦争の原因でした。当時は「貿易によって金銀を貯め込むことが国を豊かにする」という発想が根強く残っていた時代です。アヘンが輸出できなければ、イギリスの銀が流出して国が貧しくなると考えられたのです。

最新の装備を揃えたイギリス軍は、中国のジャンク船を次々に沈め、1842年には勝利を収めます。いち早く産業革命を果たした西洋に比べて、東洋の科学技術・経済・軍事力がいかに遅れているのかが、この戦争によって証明されました。

アヘン戦争における中国の敗北に、日本の知識人は恐怖します。

日本は歴史的に、中国大陸から多くの文化や技術を学んできました。歴史の大部分で、中国は先進的な地域だと見なされていたのです。その中国が、西洋の軍隊にいとも簡単に打ち破られた――。当時の人々の衝撃は相当なものだったでしょう。

1853年7月、悪夢は現実になります。マシュー・ペリー率いる4隻の「黒船」が浦賀沖に現れたのです。

倒幕、そして大日本帝国の成立

日本はアメリカと「日米和親条約」を結ばざるをえず、17世紀初頭から続いた鎖国体制は終焉しました。1808年のフェートン号事件を始め、西洋に対する「遅れ」を認識する機会は以前からありました。にもかかわらず、いざ黒船が来航してみれば、江戸幕府は手も足も出せなかったのです。

欧米の列強諸国に対応するため、幕府は現在の東京「お台場」建設など、軍備増強を進めます。なお、1861~1865年にはアメリカの内戦である南北戦争が勃発します。これによりアメリカは日本に干渉する余裕がなくなったことも、私たちの国にとっては好運でした。幕府にしてみれば、西洋に対応するための時間的猶予が生まれたのです。

しかし、それでも不充分だと考える人々がいました。大久保利通を始めとした薩摩・長州などの倒幕派です。

幕末から明治維新にかけての歴史は分かりやすい書籍が大量に出回っているので、ここでは細かい説明は割愛しましょう。1867年、最後の将軍である徳川慶喜が統治権を明治天皇に返上しました(大政奉還)。さらに1868年には江戸城が明け渡されます。これが無血開城だったことから、この政権交代は平和的に進んだと考える人がいるようです。

しかし江戸開城は戊辰戦争の最中に行われたできことです。また、時代は下りますが1877年には新政府に不満を持つ旧武士階級の人々によって反乱が起きました(西南戦争)。倒幕と新政府の樹立には、多くの血が流されたのです。

1889年には大日本帝国憲法が公布され、日本はアジアで最初の成文憲法を持つ国家となりました[1]。ここで疑問なのは、なぜ大久保利通らが(現代の基準で見れば不充分とはいえ)立憲主義を選び、議会制政治を選んだのか、です。

オリバー・クロムウェルにせよナポレオン・ボナパルトにせよ、あるいはポル・ポトでもいいでしょう。革命やクーデターに成功した指導者がのちに独裁者と化すことは、世界史のなかでは珍しいことではありません。しかし倒幕に成功した人々はその轍を踏まず、立憲主義と議会制という、権力者にとっては制限の多い政治制度をあえて選んだのです。

いったい、なぜでしょうか?

経済成長のためには、中央集権的な国家が必須です。通貨や通商制度、特許制度などを人々に守らせるためには、国家に強い力がなければなりません。現代のソマリアやシリアのような無政府状態では、経済成長――技術革新の連鎖――は望めません。

一方、国家の力が強すぎても経済成長は阻害されます。17世紀のスペイン帝国のように政府が絶対的な権力を握っている場合、人々が経済活動から生み出した富はすべて権力者に収奪されてしまいます。

さらに、たとえ革命やクーデターで権力者が変わっても、強すぎる国家は悪影響を残します。革命の指導者は、旧権力者の持っていた「富を収奪する仕組み」を引き継ぐことで利益を得られるからです。

クロムウェルやナポレオンが独裁者と化したのは、彼らが愚かだったからではありません。むしろ賢かったがゆえに、経済的に合理的な判断を下し、独裁者として振る舞うほうが得になると気付いてしまったのです(※この部分の記述はダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンが『国家はなぜ衰退するのか』に書いた仮説に基づいています。クロムウェルやナポレオンが独裁者となった背景には経済的誘因だけでなく、それぞれ独自の事情があったことは理解しています。歴史に詳しい人からはあまりに乱暴な説明だと叱られてしまうかもしれません)

では、明治維新以前の江戸幕府がどうだったのかといえば、明らかに絶対主義的で、収奪的な政府でした。しかし、その度合いは比較的弱かったといえます。

幕府の統治下でも各藩にはかなりの自治権が与えられており、薩摩藩は琉球を通じて他国と貿易することさえできました。江戸幕府の統治能力が「強すぎなかった」からこそ、倒幕に成功できたともいえるでしょう。

一方、当時の中国には「藩」にあたるものがありませんでした。アヘン戦争後の中国では「太平天国の乱」が起きますが、日本の倒幕派のように新政権樹立には成功できませんでした。また、日本における攘夷運動のような排外主義活動は中国でも広がり、1900年には「義和団事件」が起きます。義和団は清王朝からも支持されましたが、他国の連合軍に鎮圧されてしまいます。日本の戊辰戦争がアメリカなどの他国軍に介入されなかったこととは対照的です。(※なお、日本は義和団事件に連合国側として参戦しています)

話を戻しましょう。

大久保利通たちが江戸幕府の制度を引き継がなかったのは、それが欧米に比べて「遅れて」いたからというだけではありません。自分たちにとって「得にならない」と理解していたからなのです。

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富国強兵とは言うけれど……

江戸時代が終わった19世紀半ばの日本は、貧しい低開発国でした。いわゆる「マルサスの罠」に陥ったため経済規模に対して人口が過剰で、賃金水準は低く、イギリスのように資本(=機械)の利用を増やしても利益を出せませんでした。

それどころか近代的な銀行さえ存在せず[2]、起業家は充分な資本を調達できない状況だったのです。さらに国内は藩に分かれており、物や人、お金の移動は制限されていました。加えて、欧米諸国と不平等条約を結ばされてしまったため、関税によって国内産業を守りながら育成することもできませんでした。

これほどのハンディキャップを負った状況から、明治政府は「富国強兵」を唱えたのです。

江戸末期の日本経済を考えれば、それは無謀とも呼べる挑戦でした。唯一の希望は、江戸時代の長い平和からもたらされました。おそらく武術よりも商業的な能力が重視されるようになっていたからでしょう。

農業が中心の社会であるにもかかわらず、教育水準が高かったのです。1868年の時点で男子の43%、女子の18%が寺子屋に通っており、成人男性の識字率は50%を超えていました[3]。

この教育水準の高さは明治政府によってさらに推進されます。新政府は早くも1872年(明治5年)には「学制」を公布し、全国に小学校を作りました。欧米のような工業化を果たすには、教育が重要であることを理解していたのです。

また「学制」に先立つ1871年、明治政府は新通貨「円」を発行し、廃藩置県を行いました。こうして日本は1つの経済圏として統一されます。

加えて明治政府は資本の不足にも気付いており、銀行の設立を許可します。が、銀行制度が確立されるまでには半世紀を要しました。その間、政府自身がいわばベンチャー投資家として活動することで、起業家にお金を工面しました[4]。

残る問題は、関税で国内産業を守れないことと、そして何よりも賃金の安さでした。当時の日本企業は機械を導入しても利益を出せない状況で、欧米の近代的な工場で大量生産された製品と競争しなければならなかったのです。

賃金の安い場所で工業化を進める方法

今も昔も、格安の労働力は技術革新の足かせになります。研究開発や設備投資にお金を投じるよりも、労働者を増やしたほうが利益を出しやすいからです。明治の日本人はこの問題に独創的な方法で対応しました。西洋の技術を作り替えて、日本でも利益を出せるようにしてしまったのです[5]。

たとえば築地製糸場で使われていた「諏訪式繰糸機」は、女性が1人で煮繭から繰糸までを行える[6]西洋式の機械でした。が、フレームには木材や竹材が使われており、蒸気機関ではなく人力でクランクを回して動かしました。金属製の機械よりもずっと安価だったのです。つまり、少ない資本でも導入できる機械であり、賃金の安い当時の日本でも利益を出すことができました。

臥雲辰致(がうん・たつむね)は日本のハーグリーヴスとも呼ぶべき発明家です。

彼は「ガラ紡」という綿糸の紡績機を発明し、第1回内国勧業博覧会では絶賛とともに最優秀賞を受賞しました。ガラ紡はジェニー紡績機と同様、人力で動かす装置です。それまでの手紡ぎ車に比べて数十倍の生産力があり、ハンドルを回すときの音からこの名前が付きました。

ガラ紡は構造が単純で、各地の大工でも簡単に模倣することができました。つまりは格安の機械だったのです。だからこそ当時の日本でも広く普及しました。もっとも、あまりにも模造品が広まってしまったため、臥雲辰致は生活に困窮してしまいます[7][8]。

当時のインドも賃金の安さが災いして工業化が進まない地域でした。イギリス式の工場では、まったく利益を出せなかったのです。インドの工場は、当時のイギリスと同様、1日11時間操業していました。ところが、当時の日本人は11時間2交代制を採用しました。そうすることで、機械を実質半額で利用できると気付いたのです。

こうした工夫の積み重ねで、日本の近代工業は離陸し、着実な経済成長を始めました。20世紀に入るころには日本の綿紡績は世界でもっとも安価になり、他国との市場競争に勝利します[9]。

そして太平洋戦争が始まる頃には、日本は巨大な戦艦を建造し、高性能の戦闘機を製造できる工業国になっていました。1870年には737ドルだった1人あたりGDPは、1940年には2874ドルに増加しました。江戸時代の停滞状態から比べれば大躍進です。(※ 1人あたりGDPとは、GDP(国内総生産)をその国の人口で割ったもの。人口の大きい国ではGDPも大きくなるので、GDPの総額だけでは1人あたりの「豊かさ」は分かりません。そのため、国民の生活水準などを推測する際には1人あたりGDPを用います)

とはいえ、この期間の経済成長は年率にすれば約2.0%にすぎません。もしも1950年以降も同じ成長率だったとしたら、アメリカの豊かさにキャッチアップするのに327年を要した計算です[10]。

しかし日本と欧米先進国との生活水準の格差は、1990年までには解消されました。これほど短期間で追いつくことができたのは、戦後の爆発的な経済成長があったからでした。いったいどうして、戦後日本は経済的先進国の仲間入りを果たすことができたのでしょうか?後編ではその謎に迫ります。

■参考文献■
[1]ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』ハヤカワノンフィクション文庫(2016)下p96
[2]ロバート・C・アレン『なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか』NTT出版(2012年)p163
[3]ロバート・C・アレン(2012年)p160
[4]ロバート・C・アレン(2012年)p164
[5]ロバート・C・アレン(2012年)p165-166
[6]岡谷蚕糸博物館「諏訪式繰糸機」
[7]国立公文書館‐公文書に見る発明のチカラ「臥雲式綿紡績機械の発明(臥雲辰致)」
[8]国立国会図書館‐博覧会 近代技術の展示場「臥雲辰致出品の綿紡機」
[9]ロバート・C・アレン(2012年)p166
[10]ロバート・C・アレン(2012年)p169

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