世界初の株式会社「東インド会社」はなぜ誕生したのか?

簿記の歴史物語 第10回

はじめに

簿記の歴史を語るうえで、19世紀は特別な時代です。

産業革命の進展により、鉄道会社を始めとした巨大資本を要する企業が次々と生まれ、同時に粉飾決算が横行するようになりました。そのような状況を是正するため、1854年にスコットランドで勅許会計士――現在でいう公認会計士――の審査基準が定められました[1]。公認会計士は「株式会社」の巨大化にともなって生まれたのです。

公認会計士の制度は他国にも広まっていき、現在の私たちが日常的に使っている簿記・会計の知識が整備されていきました。

この連載ですでに書いたとおり、複式簿記は15世紀後半の北イタリアで完成しました。しかし当時のそれは、商人たちが自分の財務状況を把握するための技術に過ぎませんでした。19世紀に公認会計士制度が生まれるまで、簿記はあくまでも私的な記録に過ぎなかったのです。

15世紀には私的な記帳技術だった簿記が、なぜ19世紀には公的な制度へと発達しえたのか――。

この疑問に答えるには、まず、この世界に「株式会社」が生まれた過程から見ていく必要があります。1602年に設立した世界で最初の株式会社「オランダ東インド会社」は、いかにして誕生したのでしょうか?

香辛料が珍重された中世ヨーロッパ

オランダ東インド会社が生まれた背景は、その200年ほど前、大航海時代の前史から説明する必要があります。

中世のヨーロッパでは、胡椒を始めとしたスパイスが極めて高価で取引されていました。当時のヨーロッパ人は新大陸原産の食品――ジャガイモやトマト、トウガラシなど――を知らず、その食文化は単調だったと考えられます。食卓に彩りを添える存在として、胡椒が珍重されたのでしょう。

余談ですが、当時のヨーロッパ人が食品の保存のために胡椒を用いたという説は誤りだそうです。胡椒を買えるほどの富裕層は新鮮な肉をいくらでも入手できましたし、スパイスの香りで腐臭を隠す必要はありませんでした[2]。彼らが胡椒を好んだのは、単純に「胡椒の味が好きだったから」だそうです。

しかし、当時のヨーロッパでは香辛料のほとんどを輸入に頼っていました。

ブラック・ペッパーの原産地はインド北東部、ロング・ペッパーの原産地はジャワ島やインドです。クローブとナツメグにいたっては、インドネシアのモルッカ諸島やバンダ諸島といった、ごく限られた場所でしか育ちませんでした[3]。

東アジアで産した香辛料は、インド沿岸から中東、地中海を通って、西ヨーロッパへと運ばれました。当然、その過程で多くの商人たちが関わることになります。商人たちが利益を載せたぶん、西ヨーロッパに届くころには金銀財宝と同じくらい高価になっていました。

15世紀にヨーロッパの香辛料貿易を牛耳ったのはヴェネチアです。中東を介した胡椒貿易が「ヴェニスの商人」の繁栄(と複式簿記の発達)を助けたことは想像に難くありません。

逆に言えば、ヴェネチアの裏をかいてアジアと直接貿易できれば――つまり、アフリカの南端を経由してインドまで行くことができれば――胡椒貿易によって莫大な利益をあげられるはずでした。

ポルトガルの独壇場だったアジア貿易

この壮大な野望を実行に移したのが、エンリケ航海王子です。

1415年、ポルトガル王ジョアン1世の三男エンリケは、父とともにジブラルタル海峡のアフリカ沿岸からイスラム勢力を追い出しました。この遠征以降、エンリケはアフリカ西海岸の探検に取り憑かれます。自ら船に乗ることはありませんでしたが、パトロンとして、アフリカ南端を迂回する航路の発見に心血を注ぎました[4]。三男である以上、彼が王位を継ぐ可能性は低く、権力闘争では得られない栄誉を航海に求めたのかもしれません。

残念ながらエンリケは南回りの航路を発見できぬまま、1460年に没しました。しかし1492年にはスペインの支援を受けたコロンブスが新大陸(※当時はアジア大陸だと思われた)に到達。それに触発されて、1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがついに喜望峰経由でのインド到達に成功しました。

インドのカリカットに初めて降り立ったのは、ヴァスコ・ダ・ガマの船員である2人の囚人でした。現地人に「なぜインドに来たのか」と問われた彼らが、「キリスト教と胡椒のため」と答えた……という伝説は、あまりにも有名です[5]。

ヴァスコ・ダ・ガマに続く100年間、アジア貿易はポルトガルの独壇場でした。1543年に種子島に鉄砲を持ってきたのも、フランシスコ・ザビエルの後援者となったのもポルトガル人です。戦国時代の日本がポルトガルと関わりが深いのは、とりもなおさず、当時の東アジアでもっとも活躍したヨーロッパ人がポルトガル人だったからに他なりません。

次ページ:自らアジア貿易に乗り出したオランダ

第 2 頁

自らアジア貿易に乗り出したオランダ

ここでようやく、オランダの話に移ることができます。

16世紀初頭に始まった宗教改革により、ヨーロッパはカトリック勢力と新教勢力に二分されました。当時のオランダはスペインの支配下にある植民地であり、なおかつカトリックを奉ずるスペイン王室に対して、新教を信じる人々が多く暮らす地域でした。スペインに対する反発から、1568年には独立運動(※八十年戦争)が始まりました。

この地域では、もともとアントワープが貿易港として栄えていました。連載第5回にも書いたとおり、中世のフランドル地方は毛織物工業が盛んであり、アントワープはその玄関口だったのです。ところが独立運動にともなう混乱でアントワープは荒廃し、商工業者たち(とくに新教徒)は北部のアムステルダムへと押し寄せました。

時代は前後しますが、1556年にスペイン王に即位したフェリペ2世により、かの地では異端への弾圧が強まりました。結果、金融業に長けたユダヤ人たちが信仰と商売の自由を求めてアムステルダムに集まるようになりました[6]。

1580年、フェリペ2世はポルトガルの併合に成功しました。彼は敵国オランダの商業に打撃を与えるため、リスボンへのオランダ船寄港を禁じました。前述の通り、この時代の東アジア貿易の主役はポルトガルであり、高価な香辛料がリスボンに集まっていました。フェリペ2世の嫌がらせ的な政策により、オランダ人は香辛料を入手しづらくなったのです。[7]

しかし、オランダ人も黙ってはいません。リスボンで香辛料を買い付けられないなら、自分たちもアジアまで船を出そうと考えました。ポルトガル人にできて、自分たちにできないはずはない、と――。

「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」ということわざがあります。オランダは国土の大部分が低湿地帯であり、干拓によって人の住める場所を広げてきました。さらに13世紀には風車を利用するようになり、風を動力として活用する技術を蓄積していました。長距離航海に耐える船を作るのに充分な技術を、すでに持っていたのです。

さらにポルトガルは小国であり、貿易網を維持するのに他国の人間を雇わざるをえませんでした。造船・操船の技術や植民地支配に関する情報は、16世紀末にはすでに漏洩していたはずです。

1596年6月、インドネシアのバンテンに滞在中だった6人のポルトガル人は、水平線を見て度肝を抜かれました。4隻のオランダ船が、港の正面に現れたからです。コルネリス・ド・ハウトマン率いるこの4隻こそ、初めてアジアに到着したオランダ艦隊でした[8]。

世界初の株式会社、オランダ東インド会社の設立

ハウトマン艦隊の成功に勢いづけられて、オランダでは対アジアの貿易会社が林立しました。1601年末までに15の船団からなる65隻の船が東洋に派遣され、香辛料を満載にして戻ってきました。

その結果、競争が激化。東アジアでの仕入価格は高騰し、逆にヨーロッパでの販売価格は下落しました。

利益確保のため、オランダの連邦議会ではこれらの貿易会社を統合する必要性が論じられました。これに先立つ1600年、北海を隔てた隣国イギリスではエリザベス1世により勅許会社イギリス東インド会社が設立されていました。このことも、オランダ人たちの危機感を煽りました。

1602年3月、中小の貿易会社が統一され、「オランダ東インド会社(通称:VOC)」が設立されました。

VOCが「世界最初の株式会社」と呼ばれる理由は、大きく3つあります。

第一に、当時の貿易会社の大半が当座企業(航海の開始時に出資を募り、終了時に清算・解散する企業)だったのに対して、事業継続を前提としていたこと。これにより、長期にわたる植民地の維持が可能になりました。

第二に、無限責任制から有限責任制に転じたこと。それまでの企業では、会社が倒産したら出資者はその会社の負債まで引き受ける必要がありました。これを無限責任制と呼びます。一方、有限責任制のもとでは、出資者は出資した額以上の損失を被ることはありません。人々が、より気軽にカネを投資できるようになったのです。

第三に、持ち分としての株式の譲渡が自由になったこと。つまり、株式の所有権を、市場で自由に売買できるようになりました。

こうしてアムステルダムの証券取引所では、VOCの株式がさかんに取引されるようになりました。ヴェネチア、ポルトガル、スペイン、イギリス、そしてオランダ――。胡椒の生み出す冨は飽くなき欲望を呼び覚まし、近代的な資本主義を産み落としたのです。

■参考文献■[1]ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』文藝春秋(2015年)p283[2]マージョリー・シェファー『胡椒 暴虐の世界史』白水社(2014年)p35-36[3]永積昭『オランダ東インド会社』講談社学術文庫(2000年)p21-22[4]ジャック・アタリ『1492 西欧文明の世界支配』p174-185[5]マージョリー・シェファー(2014年)p54[6]永積昭(2000年)p56[7]永積昭(2000年)p60[8]永積昭(2000年)p44

Click to rate this post!
[Total: 0 Average: 0]

Leave a Reply