【経済インサイド】F1撤退決めたホンダの裏事情 世界EVシフトでガソリンエンジン開発の意義低下
2019年6月、自動車のF1オーストリアGPで優勝したレッドブル・ホンダのマックス・フェルスタッペン(ゲッティ=共同)
ガソリン車の最高峰を競うF1シリーズにパワーユニット(PU)供給で参戦しているホンダが、2021年シーズンを最後に撤退することを決めた。これまでも撤退や再参戦を繰り返してきたが、八郷隆弘社長は「再参戦は考えていない」と明言した。二酸化炭素(CO2)排出削減など世界的な環境規制の強化やクルマの電動化に対応するため、創業者・本田宗一郎氏の夢であり、巨額の費用を投じてきたF1と決別する。
「大きくかじを切り、新たなPUとエネルギーの研究開発に経営資源を集中する」
2日のオンライン会見で八郷社長はこう述べ、電気自動車(EV)やハイブリッド車(HV)などの電動車の販売比率を上げ、50年に企業活動で出るCO2を実質ゼロにする「カーボンニュートラル」の実現を目指す考えを示した。
世界的に環境規制は強まり、欧州では英国が35年、フランスが40年までにガソリン車やディーゼル車の新規販売を禁止する方針だ。米カリフォルニア州のニューサム知事も9月、35年までに州内で販売される全ての新車を、排ガスを出さない「ゼロエミッション車」にするよう義務付ける方針を示した。
ホンダは30年に四輪車の世界販売台数の3分の2をHVやEVなどの電動車にする計画を掲げるが、現状では海外大手メーカーに後れを取る。
新型コロナウイルス感染拡大による世界的な需要減で、四輪車などの販売台数が減少。21年3月期連結決算の最終利益は前期比63・8%減の1650億円と見込まれる。
9月には、米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)との提携を拡大し、主力の北米市場で車台やエンジン、電動車向けモーターなどの共通化に向けた検討を始めると発表。宗一郎氏による創業以来、独自技術へのこだわりから「自前主義」を貫いてきたホンダが、基幹部品であるエンジンの共用化にまで踏み込んだことは業界関係者に驚きを持って迎えられた。
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GMとの提携拡大についてホンダの倉石誠司副社長は「北米で大幅なコスト効率の向上が実現可能になる」とのコメントを発表。オンラインで記者会見したホンダ幹部も「グローバルで生き残るためにはコスト競争力をつけ、(先進技術への)投資に回す必要がある」と強調した。
世界最大の自動車市場である中国でも自動車に関する環境規制の強化が進む。中国政府は25年までに、新エネルギー車(NEV)の新車販売台数に占める比率を25%に引き上げる政策を発表。9月26日~10月5日に開催された北京国際モーターショーでは各社が相次ぎNEVを投入、ホンダもEVのコンセプトカーを初公開した。SUVで、量産化後は中国のほか、世界販売も視野に入れる。
ホンダのF1参戦は宗一郎氏の強い意向だったとされる。それだけに、社内ではF1参戦の継続を望む声もあったというが、八郷社長は「技術者のリソース(経営資源)を環境に傾けるべきだと判断した」と説明。「昨年の1年延長を決めたときからいろいろなことを考えてきた」といい、「(撤退は)コロナの影響ではない」と語った。
ホンダは宗一郎氏が社長時代の1964年にF1に初参戦。その後、撤退と参戦を繰り返し、08年にはリーマン・ショックによる業績悪化のため第3期の活動を終えた。
15年にマクラーレンへのPU供給で7季ぶりに復帰。第4期はマクラーレンからレッドブルなどへパートナーを替え、19年のオーストリアGPで13年ぶりとなる復帰後初勝利を挙げた。
第4期に5勝、通算で77勝を挙げているが、販売不振が原因で英国工場での四輪車生産は21年中に中止し、欧州生産から撤退する。F1は22年に大規模なレギュレーション変更が控える。ナカニシ自動車産業リサーチの中西孝樹代表は「F1で勝ってもメリットはなくなった。資本の観点から撤退は当然」と語る。
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今季のF1はコロナの影響で開催地は欧州やその近隣地域だけにとどまる。自動車業界関係者は「全世界に技術やブランドをアピールする機会が失われたのは痛い」と指摘する。
ホンダはF1に小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」の技術まで投入し、年間で数百億円とされる費用を投じてきた。八郷社長は「カーボンニュートラルを実現できる若い技術者が育った」と成果を強調する。
とはいえ、自動車メーカーとモータースポーツは切っても切れない関係だ。
トヨタ自動車は18~19年にルマン24時間、世界ラリー選手権(WRC)、ダカール・ラリーを制覇。今年9月にはルマン24時間で3連覇を達成した。電動車シフトの加速に伴い、欧州勢の独ポルシェや独アウディなどは「EVのF1」と呼ばれる「フォーミュラE」に注力する。
八郷社長は「ホンダのDNAはレース。現在参戦しているレースは引き続き熱い情熱を持って参加したい」と語った。一方で、電動車レースへの挑戦については「具体的には考えていない」と述べた。
「100年に1度の大変革期」にあるとされる自動車業界。F1完全撤退で、ホンダが生き残りに向けて加速できるか注目される。
(経済本部 宇野貴文)
1980年代に黄金期 ホンダF1の歴史
ホンダは創業者の本田宗一郎氏の下、1964年にF1に初参戦。同年から68年までを第1期とし、黄金時代を築いた第2期(83~92年)、リーマン・ショックで撤退するまでの第3期(2000~08年)、現在に至る第4期(15年~)まで参戦と撤退を繰り返し、通算77勝を挙げた。
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第1期の最初に投入した「RA271」は初めてF1を走った日本製マシン。エンジンと車体の両方を自前でそろえる「フルワークス体制」で、同社はホームページで「純日本製F1マシンは、欧州中心のF1界に衝撃を与えた」と紹介している。参戦2年目の65年は、新型マシンに搭載したエンジンで抜群の加速性能を実現。最終戦のメキシコGPで初優勝したが、低公害エンジン開発を理由に68年で活動を休止した。
1983年からの第2期はエンジン供給の形で復帰。ウィリアムズ・ホンダが86~87年、マクラーレン・ホンダが88~91年にそれぞれ製造者部門で優勝して黄金期を築く。ウィリアムズではマンセル(英国)やピケ(ブラジル)が計23勝、マクラーレンではセナ(ブラジル)やプロスト(フランス)が計44勝。88年は16戦のうち15勝を挙げる快挙を成し遂げた。87年にはロータス・ホンダで中嶋悟が日本人初のF1ドライバーになった。92年を最後に撤退した理由は販売不振だった。
第3期の2000年からはBARなどへエンジン供給。BARのF1撤退を機に06年からは再びフルワークス体制で参戦した。バドン(英国)が1勝を挙げ、佐藤琢磨らがドライバーを務めたスーパーアグリにもエンジンを供給。07年は環境の重要性を宣伝するため、地球をイメージした白と緑を基調とした彩りの車体を採用した。伝統的な広告デザインの車体を刷新して注目を集めたが、リーマン・ショックによる業績悪化で08年限りで撤退した。
15年からの「第4期」はマクラーレンへのパワーユニット(PU)供給で7季ぶりに復帰。現在コンビを組むレッドブルのフェルスタッペン(オランダ)らの活躍で昨年の第9戦オーストリアGPで13年ぶりの頂点に立つなど、復帰後5勝を挙げていた。