国の情報隠蔽がもたらすもの––フランス革命からの学び

簿記の歴史物語 第26回

はじめに

ジャック・ネッケルという人物がいます。スイス人の銀行家であり、フランス国王ルイ16世に財務長官として雇われた男です。ネッケルは庶民階級の生まれでしたが、穀物の投機で莫大な利益を上げたことで上流階級の仲間入りを果たしました。また、彼の妻が主宰していたサロンは大変な人気で、人脈にも恵まれていました。

ルイ16世が即位したのは1774年。世界史に詳しい方なら、この年代を聞いただけでピンと来るでしょう。北米大陸のフランス領植民地とイギリス領植民地とが衝突したフレンチ‐インディアン戦争から10年ほどしか経っておらず、さらに1775年からはアメリカ独立戦争が始まりました。のちにアメリカ合衆国となる植民地側として、フランスも独立戦争に参戦しています。

度重なる戦争により、フランスの財政状態は急激に悪化していました。

そこで、会計・金融の知識に優れ、人脈豊かなネッケルに白羽の矢が立ったのです。

ネッケルの財務改革

当時のフランスを一言であらわすなら「腐敗」でした。人口の3%足らずの上流階級がフランス全土の富の90%を保有しており、さらにさまざまな特権により税金を免れていました。税の徴収は「徴税請負人」という人々に委託されていましたが、彼らは国から求められた以上の税金を徴収して、私腹を肥やしていました。

当然、一般庶民は恣意的で不透明な重税に苦しめられていました。徴税請負人たちの帳簿は複式簿記ですらなく、しばしば改竄が入り込みました。受け取った税金をすぐに財務省に渡さないばかりか、高利で王家に貸し付ける者までいたそうです。

こういう状況だったからこそ、ネッケルのような外国人が登用されたのでしょう。

貴族や徴税請負人たちの既得権益からは距離があり、個人的な損得を離れて改革を進めてくれるはず――。そういう期待があったはずです。もちろん、彼がスイス出身でジュネーヴの金融界に顔が利き、国王のためにカネの工面をしやすい立場だったことも理由の一つでしょうが。

財務長官に就任したネッケルは、さっそく辣腕ぶりを発揮しました。徴税請負人の数を削減したうえに、抜き打ちで監査できるようにしました。さらに、国家財務を複式簿記による元帳で集中管理しようとしました。当時のフランス王室の負債は30億リーブルに達しており、利払いだけで年に約2億リーブル。歳出の半分以上の額が、利子の支払いに充てられていました。ネッケルにとって財務改革は待ったなしだったのです。

ところが彼の改革は、既得権益者による猛烈な反発を招きました。

もともと外国人だったネッケルは、批判者にとって叩きやすい相手でした。パリの大衆新聞には根も葉もない悪評が書かれ、扇動的なパンフレットがバラまかれました。いわく、スイスの銀行家であるネッケルは国庫のカネを自分の懐に収めようとしている、云々――。ジョン・ローというスコットランド人によりフランス経済が滅茶苦茶になったことは、以前の記事で紹介した通りです。攻撃者たちはネッケルを第二のローだと見なしたのです。

注目すべきは、「ネッケル叩き」の材料としてさまざまな数字が使われたことです。ネッケルが国庫からかすめ取ろうとしている金額は175万リーブルに登るとか、ネッケルの徴税請負人改革には9800万リーブルのコストがかかるとか、そんな改革をせずとも銀行組合から未払い債務を取り立てるだけで2億5000万リーブルを回収できるとか……。たとえ根拠薄弱のデタラメな計算でも、数字が並んでいると説得力が増します。

だからこそ、ネッケルは思い切った反撃に出ました。

「ネッケル叩き」への反撃

国庫の財務情報を開示して、新聞やパンフレットの批判を論破しようとしたのです。

1781年、『国王への会計報告』という文書が公表されました。その年の王家の財政の報告書という体裁であり、それによれば1020万リーブルの黒字だと書かれています。この報告書は、ネッケルが自らの地位と評判を守るためのものだっただけでなく、どうやらヨーロッパ各国の金融界にも目配せしたものだったようです。フランスはこの通り黒字だから、引き続きお金を貸してくれ、というわけです。

『会計報告』は空前のベストセラーとなり、その年だけで10万部が売れました。国外でも翻訳されて数千部が売れたと見られています。まだ識字率の低い時代にあって、これは異例のヒットでした。約80年後に出版された『種の起源』でさえ、初版部数は1,250部にすぎません。

絶対王政下のフランスでは国の財務状況を国民に知らせる義務はなく、国家財政は謎に包まれていました。その秘密を白日の下にさらしたことがどれだけ衝撃的だったか、この販売部数だけでも分かろうというものです。

ネッケルの『会計報告』によれば、フランス王家の総収入は2億6415万4000リーブル、経常支出は2億5395万4000リーブルだったそうです。兵士への給与が6520万リーブル、宮廷費用と王室費が2570万リーブル等々。軍事費や王宮の豪勢な生活にかかる費用に比べると、道路橋梁建設500万リーブル、パリの警察・照明・清掃150万リーブル、貧民救済費90万リーブル、王立図書館維持費8万9000リーブル等、一般庶民の生活にはあまり関心が払われていなかったことが分かります。

罷免、そして復帰

当然、フランスの市民たちは怒り狂いました。

この『会計報告』は貴族や政治家からの突き上げも激しく、1781年5月19日、ついにネッケルは罷免されてしまいます。

しかし一度は大衆新聞に袋叩きにされたネッケルですが、王家の秘密を暴いたことで民衆の味方だと見なされるようになりました。一般庶民のヒーローになってしまったのです。

新聞各紙は『会計報告』に関する特集記事をたびたび掲載しました。また王室の側でも、ネッケルほどの敏腕ぶりを発揮できる財務担当者が見つからなかったようです。罷免後も、大筋ではネッケルが描いた絵どおりの改革が進んでいきました。

1788年、ネッケルは財務長官へと復帰しました。

ルイ16世としては苦渋の選択だったでしょうが、民衆の声を無視するわけにはいかず、また他に適任者がいなかったようです。人々は大通りに繰り出して、ネッケルの復活を祝ったと言われています。

とはいえ、財政難というフランスの状況は変わりません。

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そして、フランス革命へ

ルイ16世は免税特権を享受していた貴族や聖職者からも税金を徴収しようとしますが、パリ高等法院はこれを拒否。フランスの各身分の代表者が集まる「三部会」を開かないと、新税は導入できないと告げます。

当時のフランスでは、カトリック聖職者が〝第一身分〟とされ、もっとも豊かな生活を送っていました。続く〝第二身分〟は貴族階級で、聖職者とともに納税を免れていました。それ以外のフランス民衆が〝第三身分〟であり、これら三つの身分の代表者が集まらなければ国家の重要な課題は議論できないとされていたのです。

そして5月5日、実に175年ぶりに「三部会」が開催されることになりました。

結果は散々でした。第三身分の人々は、自分たちが経済的にも政治的にもどれほど不公平な立場に置かれているのか、「三部会」を通じてハッキリと自覚したのです。もはや政治の流れを止めることはできませんでした。6月17日には平民たちが「国民議会」を結成し、6月20日には有名な「球技場の誓い」が交わされました。

6月23日、パリ市民の間をとある噂が飛び交いました。王妃マリー・アントワネットが、ネッケルを罷免するよう国王にねだったというのです。怒りに駆られた大衆がヴェルサイユ宮殿に繰り出し、門扉の前を埋め尽くしました。彼らを安心させるためにネッケルが姿を現すと、大衆は拍手喝采で迎えたと言われています。

一方、王室関係者たちはこれだけの群衆が簡単に集まることに慄然としました。ルイ16世はパリとヴェルサイユに軍隊を集結させ、国民議会に監視の目を光らせるよう命じます。

7月11日、ネッケルはパリをうろつく兵士の多さに苦言を呈しました。民衆に対する圧力であることは明らかだったからです。しかしルイ16世は庶民の不満を顧みず、またしてもネッケルを罷免してしまいます。

そして7月14日、政治犯や思想犯を収監していたパリのバスティーユ監獄が、怒れる群衆の襲撃を受けました。かくしてフランス革命の火ぶたが切られたのです。

租税国家の存在意義

ネッケルの例が示すのは、適切な情報開示が国家の安定にとっていかに重要かということです。情報を意図的に改竄したり隠蔽したりすれば、それは国民の激しい不信を招き、ときには最悪の事態――革命――をもたらします。

中世から近代にかけて、国家というものは「家産国家」から「租税国家」へと発展したと言われています。

中世までは、国家運営は王家の私的な財産によって賄われていました。これを「家産国家」と呼びます。現在でもブルネイのように、王室が石油やガスで潤っているおかげで個人の所得税・住民税が課されていない国があります。一種の家産国家と呼べるでしょう。

ヨーロッパ諸国では近世以降、戦争の大規模化にともない戦費も増大しました。王室の財産だけでは国家運営を賄いきれず、かといって借金にも限界があります。最終的には、国民から徴収した税金によって国家を運営せざるをえなくなりました。

「租税国家」の誕生です。

国民は税金を納める代わりに、議会を通じて税の使い道を監視させるように要求しました。現代では当たり前になった議会制政治や国民主権は、租税制度の発展にともない産声を上げたと言えるでしょう。

イギリスでは17世紀の清教徒革命や名誉革命によって、この「納税者による監視」の習慣が根付いていました。一方、フランスは情報開示の面で大きく遅れていました。このことが庶民の不満を制御できないレベルまで膨らませて、革命をもたらしてしまったのかもしれません。

このような歴史的経緯からいえば、納税と正確な情報開示はセットであるべきだと考えられます。

もしも政府が積極的に情報の改竄や隠蔽を行うのなら、それは納税者の不信を招くだけでなく、徴税そのものに対する正当性を失わせます。私たちが税金を納めるのは、それが日本の繁栄という目的のために正しく使われると信じているからに他なりません。

国家に対する国民の信頼を維持するためには、公文書管理の徹底は避けて通れないでしょう。

■主要参考文献■ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』文藝春秋(2015年)諸富 徹『私たちはなぜ税金を納めるのか 租税の経済思想史』新潮選書(2013年)

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