学術会議問題のズレた議論、「学問の自由が侵された」はなぜ無理筋か
10/8(木) 6:01
ただ、これも無理筋の主張だと言わざるを得ない。立派なセンセイのおっしゃることにイチャモンをつけているようで大変心苦しいが、日本学術会議は厳密に言えば、諸外国の「アカデミー」とは似て非なるものなのだ。
先ほど、新しい時代に向けた学術会議の「変革」についてこれまで何度も議論が重ねられてきた、と申し上げたが、その検討会の中で配布された資料の中に、「各国アカデミーのデータリスト(2015年更新版)」というものがある。その名の通り、先進諸国の科学アカデミーを一覧にして比較しているのだが、その中で日本学術会議の「特異性」が際立つ項目がある。それは、「政府機関への帰属」だ。
この資料によれば、全米科学アカデミーは法的地位として非営利組織なので「独立」、英国王立協会(ロイヤルソサエティ)は自治組織として登録されている慈善団体なので「独立」、フランス科学アカデミーも独立機関なので「独立」、ドイツ科学アカデミーレオポルディーナも非営利組織なので「独立」、カナダロイヤルソサエティーも同じだ。
● 世界から見た日本学術会議は アカデミーと呼べるものではない
では、我らが日本のアカデミーにはどんな記載がなされているのか。法的地位としては「政府機関」という位置づけなので、「政府機関への帰属」についても「特別の機関」というよくわからない表現がなされている。
その特別ぶりがよくわかるのが、「年間予算」という欄である。各国のアカデミーが政府との契約や助成金の他に、民間からの寄付や学者たちの払う会費で成り立っており、「独立性を確保するため、さまざまな財源がある模様」という記載があるのに対して、日本学術会議は「全額国庫負担」で民間資金も「0」と記載されている。
つまり、日本学術会議の会員の皆さんは、「我々はアカデミーだぞ。アカデミーにたてつくとは何事か」とやたらと胸を張るが、残念ながら現実としては、法的にも政府との関係的にも、そして独立性を担保するための財源的にしても、とても「アカデミー」と呼べるような代物ではないということなのだ。
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● 日本や中国にとって 「学問の自由」は国家が保障するもの
そこで、「じゃあ、日本学術会議というのは一体何なのだ」という疑問が出てくるだろう。実はこの比較データで見ると、日本学術会議と同じく「政府機関」であり、100%国家予算で運営され、民間資金が「0」と明記されている団体がある。それは、チャイニーズアカデミーオブソサエティ、そう「中国科学院」だ。
もちろん、中国科学院は中国のハイテク、自然科学分野を牽引するゴリゴリの最高研究機関だ。レノボやセンスタイムという世界の最先端技術も、こことのつながりで生まれたと言われている。人文・社会分野の研究者も多く参加して、政府や社会への提言だ、科学研究予算の分配だ、という日本学術会議とはまったく組織としての性格が違う。
ただ、権力との距離、独立性ということで言えば、2つの組織は瓜二つなのだ。では、なぜ瓜二つになるのかというと、学問に対する考え方が似ているからだ。アメリカやイギリスという他の先進国は、学問に限らず「自由」や「独立性」というのは基本的に自分たちの手で勝ち取るものだと考えている。
先進的な研究がしたければ、大企業や金持ちからの支援や寄付を受けるよう、学者であってもスーツを着込んで出資者へプレゼンする。もちろん、政府からの仕事も受ける。1つのスポンサーに依存をしないことで、学問や研究の独立性を守るという考え方だ。
だが中国の場合、「自由」や「独立性」というのは基本、国家が認めてくれないと享受できない。「最も成功した社会主義」などと揶揄される日本も、感覚的にはこちらに近い。その象徴が「記者クラブ」だ。
海外のジャーナリストがドン引きする、世界でも珍しいこのシステムは、マスコミによれば「報道の自由」を守るためには絶対に必要だという。政府や役所が認めてくれた「選ばれし人々」だけしか取材ができないシステムを、国家がちゃんと整備して提供してくれないことには、報道の「自由」も「独立性」も守れないというのだ。
そんな国家から特権を与えられた「選ばれし人々」が、「学問の自由を守ってやっているのだ」という上から目線の考え方は、学術会議のセンセイたちからもひしひしと伝わってくる。
第 3 頁
先日、ある情報番組を見ていたら、今回任命されなかったという学者センセイがリモートでご出演されていて、今回の騒動で一部から出ている学術会議への批判に対して、やはり思うところがあるのか、いろいろぶちまけていた。
曰く、10億円の税金が投入されているが、会員数で割ると1人50万円程度しかなく、新幹線代も出ないくらいなので、もっと出せと事務局に文句を言った。曰く、10億円の税金が高いというが、これで日本の学問が救われるのだから安いものだ――。
コロナで誰もが生活が苦しい中で、何とも浮世離れしたご発言の数々だが、だからこそ脇目もふらずに真理を追求できるという面もあるので、それはいいとしよう。ずっこけそうになったのは、「学術会議は検察や人事院を上回るほどの独立性を持っていると法律で決められている」とおっしゃったことだ。
法律でそう解釈ができるからと言って、前述のように、世界のアカデミーの「独立」というのはそういう類の話ではない。もしかしてこのセンセイ方は、誰からも何も文句を言われずに、自分たちの思うまま好き勝手に公金を使えることを、「学問の自由」だと勘違いしているのではないか、とちょっと不安になった。
● 異常な組織を知らしめるための 菅首相の「作戦」では?
と同時に、あれほどキレる菅首相がこんなにわかりやすい「学者弾圧」をして、理由も語らないというのは、もしや怒った学者センセイたちがマスコミに登場して、こんな世間ズレした持論を展開させることが狙いなのではないか、という考えさえ頭をよぎった。
確かに、今回の騒動が盛り上がって「そもそも学術会議って何なの?」という声が大きくなれば、2005年の法改正をしたときのように、「日本学術会議のあり方検討会」などが立ち上がるだろう。前回は大して世間の注目を集めなかったが、今回は足もとの問題があるので、国民的な関心が高まるはずだ。
つまり、実はこれも行政改革の一環で、「日本学術会議という組織の異常さと、そこに居座り続ける学者センセイたちの、国民とあまりにもかけ離れた特権意識」を浮かび上がらせるために、わざと物議を醸すような強引な手法をとっていたとしたら――。
もしそうだとしたら、「ガースー、恐るべし」ではないか。
(ノンフィクションライター 窪田順生)
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● 日本や中国にとって 「学問の自由」は国家が保障するもの
そこで、「じゃあ、日本学術会議というのは一体何なのだ」という疑問が出てくるだろう。実はこの比較データで見ると、日本学術会議と同じく「政府機関」であり、100%国家予算で運営され、民間資金が「0」と明記されている団体がある。それは、チャイニーズアカデミーオブソサエティ、そう「中国科学院」だ。
もちろん、中国科学院は中国のハイテク、自然科学分野を牽引するゴリゴリの最高研究機関だ。レノボやセンスタイムという世界の最先端技術も、こことのつながりで生まれたと言われている。人文・社会分野の研究者も多く参加して、政府や社会への提言だ、科学研究予算の分配だ、という日本学術会議とはまったく組織としての性格が違う。
ただ、権力との距離、独立性ということで言えば、2つの組織は瓜二つなのだ。では、なぜ瓜二つになるのかというと、学問に対する考え方が似ているからだ。アメリカやイギリスという他の先進国は、学問に限らず「自由」や「独立性」というのは基本的に自分たちの手で勝ち取るものだと考えている。
先進的な研究がしたければ、大企業や金持ちからの支援や寄付を受けるよう、学者であってもスーツを着込んで出資者へプレゼンする。もちろん、政府からの仕事も受ける。1つのスポンサーに依存をしないことで、学問や研究の独立性を守るという考え方だ。
だが中国の場合、「自由」や「独立性」というのは基本、国家が認めてくれないと享受できない。「最も成功した社会主義」などと揶揄される日本も、感覚的にはこちらに近い。その象徴が「記者クラブ」だ。
海外のジャーナリストがドン引きする、世界でも珍しいこのシステムは、マスコミによれば「報道の自由」を守るためには絶対に必要だという。政府や役所が認めてくれた「選ばれし人々」だけしか取材ができないシステムを、国家がちゃんと整備して提供してくれないことには、報道の「自由」も「独立性」も守れないというのだ。
そんな国家から特権を与えられた「選ばれし人々」が、「学問の自由を守ってやっているのだ」という上から目線の考え方は、学術会議のセンセイたちからもひしひしと伝わってくる。
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先日、ある情報番組を見ていたら、今回任命されなかったという学者センセイがリモートでご出演されていて、今回の騒動で一部から出ている学術会議への批判に対して、やはり思うところがあるのか、いろいろぶちまけていた。
曰く、10億円の税金が投入されているが、会員数で割ると1人50万円程度しかなく、新幹線代も出ないくらいなので、もっと出せと事務局に文句を言った。曰く、10億円の税金が高いというが、これで日本の学問が救われるのだから安いものだ――。
コロナで誰もが生活が苦しい中で、何とも浮世離れしたご発言の数々だが、だからこそ脇目もふらずに真理を追求できるという面もあるので、それはいいとしよう。ずっこけそうになったのは、「学術会議は検察や人事院を上回るほどの独立性を持っていると法律で決められている」とおっしゃったことだ。
法律でそう解釈ができるからと言って、前述のように、世界のアカデミーの「独立」というのはそういう類の話ではない。もしかしてこのセンセイ方は、誰からも何も文句を言われずに、自分たちの思うまま好き勝手に公金を使えることを、「学問の自由」だと勘違いしているのではないか、とちょっと不安になった。
● 異常な組織を知らしめるための 菅首相の「作戦」では?
と同時に、あれほどキレる菅首相がこんなにわかりやすい「学者弾圧」をして、理由も語らないというのは、もしや怒った学者センセイたちがマスコミに登場して、こんな世間ズレした持論を展開させることが狙いなのではないか、という考えさえ頭をよぎった。
確かに、今回の騒動が盛り上がって「そもそも学術会議って何なの?」という声が大きくなれば、2005年の法改正をしたときのように、「日本学術会議のあり方検討会」などが立ち上がるだろう。前回は大して世間の注目を集めなかったが、今回は足もとの問題があるので、国民的な関心が高まるはずだ。
つまり、実はこれも行政改革の一環で、「日本学術会議という組織の異常さと、そこに居座り続ける学者センセイたちの、国民とあまりにもかけ離れた特権意識」を浮かび上がらせるために、わざと物議を醸すような強引な手法をとっていたとしたら――。
もしそうだとしたら、「ガースー、恐るべし」ではないか。
(ノンフィクションライター 窪田順生)